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【短編小説】また会う日まで

短編小説
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最後まで力の限り生きた父、半年間の思い出記録。

あなたを尊敬し、心から感謝いたします。

本当に今までありがとうございました。

この半年間で父は病院を3回移動した。

そのうちの2か所の病院は、検査をしたり

歩いてリハビリなど治療を主にする所だった。

コロナ渦の影響がまだ残り、面会の制限があった。

面会時間は、15分。

私たち夫婦は短い面会時間でも、父の顔を見たくて

片道2時間弱かけて会いに行った。

私たちの住まいは、父の病院から2時間ほどかかる場所。

半年前のことだ、入院して間もない時に父から

初めてこんなことを話してくれた。

「お父さんは幸せだ、

長男、長女二人ともちゃんと家庭をもち頑張って生活して

親にも迷惑をかけないで良くやっている」と。

正直、父からそんなことを言われた

記憶が今までなかったのでとても心に残っている。

嬉しかった。

この半年間、父の身体は徐々に

体重、筋力、体力が低下していく姿を目の当たりにした。

父は大病をしてこれまでに7年間、治療と定期的な検査を頑張っていた。

7年間ずっと同じ主治医、親切で父は先生の事を信頼していた。

長年同じ病院でお世話になっていたが、病院を移動し

お世話になった女医の先生と離れる事になる。

2番目に行った病院は、先生同士が

知り合いで父も安心していたようだ。

そんな関係の先生が長年付いてくれていて、

私は遠くに住んでいたが、安心していたこともあった。

父の容体が特に悪化したのは、この半年の間だった。

これまでどんな治療でも、気力、体力があり乗り越えてきた父。

そんな父は、何か自分の身体で感じたか、

父の希望で、治療中心の病院から

終末期を迎える人の為の病院のホスピスへ移動した。

そこの病院は、キリスト教の病院で病院内に聖堂があった。

神父様も常駐しており、ミサも行われている立派な教会だった。

カトリック教会を信仰していた父にとっては、

とても喜ばしい環境に本人、家族で喜んだ。

神父様は、父の部屋に毎日のように会いに来てくれていた。

父が嬉しそうに話してくれて私も心から喜んだ。

神父様はなんと、生年月日がほぼ同じ時期で父が生まれるのが早く

「兄貴」とよばれるほど親しくすぐになった。

父に会いに行ったときに、一枚の写真を見せてくれた。

しかも、とても嬉しそうに私たちに見せてくれた。

その写真は、神父様がベットに座る父を映してくれたものだった。

父は、これを遺影にしてと話し、分かったと伝えた会話をした。

その時は、冗談のように受けこたえたが私は

父の希望は、ちゃんと覚えておこうと決めていた。

ある日、父に会いに行った時に

私も神父様と会うことができた。

とても、優しそうな人だった。

神父様が、私にこんなことを語りかけてくれた。

「お父さん優しいでしょう」と。

私は一気に心が熱くなり涙が出そうになった。

少し震える声で「はい。優しい父です」と返事をした。

こんなに短期間で、父の良さを知ってもらえることが嬉しかった。

そして、一人病院の部屋にいる父にこんなに優しくしてくれる方が

いることに心から感謝した。

ホスピスは3回目に、引越しをした病院。

看護師さん、神父様に囲まれて

こんなにも温かい環境に来て良かった。

この環境に人に恵まれていることにすべてを含めて良かった。

もちろん、今までお世話になった病院も皆さん優しく

私は、この世界は優しさに溢れていると

実感した日々を思い出していた。

ホスピスに来てすぐの頃、

父は病院内を見て回って教会も入ったと、

嬉しそうに電話でその様子を話してくれた。

シスターから美味しいコーヒーはいかがでしょうかと

声をかけてもらったと嬉しそうだった。

部屋も、個室で大きなソファやトイレ、洗面場、冷蔵庫

部屋が豪華で父は、ここは最後の住みかに良いと満足していた。

それを聞いて私は、環境が変わり父にとって良い日常が

動き出した気持ちに心が踊ったことを今も鮮明に覚えている。

今思えば、そんな日々は数日間だけだったのかもしれない。

だが、数日あっただけで感謝とも言える。

そんな気持ちもつかの間、しばらくすると

父は体力の低下で、ほぼ寝たきりの状態になっていた。

父は、丈夫な身体で若い頃から大きな病気もすることなく

定年を迎えその後も、趣味の魚釣りなど10年ぐらいは

謳歌できたのでは、ないだろうか。

病気になったのは、70代になってから。

不謹慎かもしれないが、

この現代で高齢になるまで病気一つしないで

過ごせてきたこと、私は父が丈夫な心と体でとても

誇らしく思う。そして、長年健康を支えた母にも尊敬をする。

父の闘病生活は7年、とても長い年月だった。

過去に入院することも多く、その当時は病室の大部屋に慣れていた。

父の入院生活はいつも周りに人々が居た。

だから、ホスピスの病院へ移動した直後は初めての個室に

喜んでいたけど、一人の部屋に寂しい気持ちが芽生え始めていた。

ホスピスの個室に居れた期間は、1ヶ月と9日。

父はポツンと一人で孤独を感じていたのかもしれない。

ホスピスの病棟看護師たち、ボランティア活動の方は

とても親切で、愛に溢れた接姿方をしてくれた。

父も感謝をしていると私に話してくれた。

しかし、それでも父は寂しかったようだ。

看護師さんたちは、父の様子を一日中

確認しに来てくれるけど、

父はもっと会話がしたかったんだと今、思う。

それに気付いてあげれたのは、だいぶ後になる。

身体は思うように動けない状態だったけど

ボケることもなく、頭もしっかりしていた。

父は、人と話すことが大好きな人だった。

とてもおしゃべり好きでいろんなところで実は愛されていた。

だから、父が一番好きな会話が頻繁にできないで

気持ちがどんどん落ち込んでいったようだ。

私も、育児をしているので毎日は病院へ行ってあげれなかった。

もっと、会いに行き気持ちを聞いて上げれたら良かった。

その気持ちを知り、実は私は調べていた。

もっと、自宅みたいなアットホームな施設がないのか。

ここも良いが、残された父の時間

私はさらに、何かできないが探求していた。

しかし、調べるがそういう所は地域になかった。

一通り調べたが見つからなかったのでこの件は保留にした。

どこの病院も看護師の人手不足の状況だった。

父のホスピス科もそうだった。

部屋は空いているが、人手が足らないと聞いていた。

父は、体力低下の中でも車いすで

院内を散歩しようと気持ちがあったが

病院の看護師さん方も、人手不足で忙しくて

父が散歩に行きたい時に、

連れて行くことはできない状況だった。

看護師が手があいて、お散歩行きましょうと

父に声をかける時には、

もう、父の散歩に行けるタイミングの時間ではなかった。

看護師さんとすれ違う日々があったことも後で聞いた。

父はとても優しい人だった。だから

相手に無理を言わない。

きっとみんな忙しいから遠慮したんだろう。

看護師さんに院内の散歩に行きたいことも

言わないようになり、病室からでなくなっていく。

何年か前、父が闘病していた時を思い出した。

その当時は、大病で入院して治療していたが

体力もあり、入院中一階から最上階まで階段を歩いて

気分転換に運動をしたと電話で話したことがあった。

父は、それぐらい暇さえあれば動くことが好きだった。

この半年間、父の体力的に動ける状態が変わり複雑な思いがあった。

病気の時でさえもアクティブだった父。

半年前、気力だけで動いているみたいなことを話していた。

きっと動かないと体力がつかなくなるから気力で

動こうと頑張っていたのかもしれない。

車いすでも散歩に行こうとしていたのは忘れたくない。

しかし、毎日の習慣がなくなるとこんなにも

活動する意欲がなくなるようだ。

私は、看護師さんに対して不満はない。

ホスピスの看護師さんの様子を見ていて

精一杯に対応してくれていることは分かるから。

父の体は思うように動かせなくても

頭もしっかりしていて、気も使えるぐらい心はいつも冷静で落ち着いていた。

私たち、子ども達の前でもいつも冷静でどんなに身体が辛くなっても

そんな姿を見せなかった。

しかし、あとから母から聞いたら弱音を吐いていたそうだ。

ホスピスの看護師さん達から父は

扱いやすいといわれていた。

今思えば、もっとわがままになっても良かった。

本当に我慢強い父だ。

ホスピスへ移り、一ヶ月もしないうちに父の容体が

不安定になる日が増えてきた。

ある日の昼過ぎ、兄から電話が来た。

母から連絡があり、お父さんの状況がよくないと。

そんな電話は初めてだった。

過去に一度もなかったから怖かった。

母は病院へ向かうと聞いた。

兄は、東京在住だった。父の病院まで飛行機などでの移動

4時間から5時間はかかる距離だった。

兄はすぐには帰って来れない距離。

父に何かある時は、母の自宅に連絡が行くようになっていた。

兄は母から連絡を受けて、私にかけてくれた。

母とは連絡が取れず、父の状況が分からなくて

私も電車で2時間かけて父の病院へ向かった。

向かう途中、電車で兄とメッセージのやり取りをした。

兄からメッセージがきた。

その後、お母さんから連絡は来た?

私はまだ連絡ない、状況はいまだに分からないと返信する。

そのあと、しばらくして母から電話が来た。

父は大丈夫だからと。母も病院に泊まる用意を

して行っていたが、夕方に自宅に帰宅していた。

その連絡で私はホッと安心した。

しかし、もうすぐ父の病院の近くに

到着するのでそのまま向かった。

病院に到着したのは、19時半ごろになった。

私は、まだ子育て中であり家の状況を

整えてからの出発でかなり遅くなってしまった。

夜ご飯の用意もしないで家を夜に空けるのは初めてだった。

子供たちを信頼して家の事を任せた。

父の部屋に到着すると、想像以上に表情も良く安心した。

後から聞くと、父は医療用の麻薬を初めて使用して

幻覚をみていたり、その症状の辛さを話していた。

たぶん、医療用麻薬を使用したのはホスピスに来て

2回目ではないだろうか。

それ以来、父は使う事を嫌がっていた気がする。

父もこんな夜に一人で来た私を見て驚いていた。

その時、何を話したかはよく覚えていないが

穏やかな時間、会話をしたことを覚えている。

一番に鮮明に思い出すことは、私の電車の時間の事だった。

最終電車に間に合うように

早く帰りなさいと優しいひとことだった。

あと、部屋に到着してすぐに私に今日は病院に泊まるの?と聞かれた。

父は私たちに、この病院は家族が泊まれる

専用の部屋があることを話していた。

今思うと、泊まって欲しかったんだろう。

私も一晩でも泊まれば良かったな。

父に私が気にいって飲んでいるハーブティーを入れてあげた。

父の鼻の下にハーブティーをもってきて

香りをかいでもらった。

良いにおいと言ってくれた。

そして、薄いハーブティーを入れて飲んでもらうと

美味しいとその後も面会で数回、入れてあげた。

この日は、父の容体も落ち着き私は最終の便で家に帰ることにした。

父の病室を帰る時、とても切なくなる。

また、会えますように!と

部屋で見えなくなるまで振り返り目に焼き付けていた。

それから、私の気持ちにも変化がでできた。

父にたくさん会いたくなる日が増えてきた。

父は携帯を持っていたので、連絡をたまにとっていた。

しかし、前みたいにスムーズにとれなくなり

父の状況を携帯越しで聞くことが減ってきていた。

声だけでは様子が分からなくて心配な日は、また電車で会いに行った。

そんな3日おきに行く日、週もあった。

家庭があるからとか、

お父さんは大丈夫だからとか

そんなことを言って私に

無理をさせないように言ってくれていた。

しかし、きっとちょこちょこ顔を見せに来ることが

嬉しかったのでは?と思う会話があった。

「まーた、どうせ3日後に来るかもね!」と。

父が冗談まじりの表情で話してくれた。

その後も、どんどん体力が低下していた。

旦那さんも仕事を早退して一緒に

父に会いに行くってくれた。

旦那さんと病室に着いたのは、夜だった。

父は寝ていて、静かに寝ているそばで見守っていた。

父が目を覚まして、私と旦那さんがいるのに軽く驚いていた。

寝起きの父がしばらくして、意識もスッキリしてきたのか

会話がはずんできた。

私と旦那さんの顔を見て、良し気合いが入った!と目をきりりとさせて言った。

その後、母と話して聞いた。

お父さんは、ほっさのように容体が安定しないことが

おきるようになり、こんな事を繰り返して

弱っていくかもしれないと。

父の思いは、ホスピスに入り自宅へ帰れるようにする為もあった。

しかし、現実は厳しかった。

体力の低下でそんな当初の自分の気持ちも忘れるほど

希望をなくしていた。

体調に波があり、不調な事が増えてきた時期。

私は、ある日

父に確認をした。

お父さんは家に帰りたくないの?

父は言った。

そりゃあ、帰りたいよ。

私は父の気持ちを確認して決めた。

お父さん帰るよ!

それを伝えたら父の目が一気に

生きる力がみなぎって見えた。

それは、忘れていた目的を思い出したかのように。

大げさかもしれないが

また、父にエネルギーが吹き込まれたように感じた。

父は話し出した。

ここに来て家に帰ることを考えていたが、

思うように院内散歩もでなくなり、ベットの上でいる事が

当たり前になっていた。

私は父に言った。

家に帰るために、部屋から出る練習をしよう。

体力の低下で外に出るだけでも

疲れやすくなってるかもしれないから

院内を車いすで散歩する習慣をつけなきゃね!

それを言うと、父はとても納得していた。

5日後、父は一時帰宅を成功させる。

今思うと、残された力を気力を全部集中して

帰ることを考えてくれたと思う。

次の日から、看護師さんにお願いして院内を散歩

有限実行している父はさすがだった。

実はこの話をする3日日前に、父は体調を崩して

母に最期のお別れの電話をしていた。

母も、半泣きで話したようだった。

気持ちが強い父が初めて弱気になっていた。

しかし、自宅に帰るよと!話し

最後の気力を奮い立たせているように私には見えた。

父は、もう弱気にならないと話してくれた。

一直線、遠くをしっかりと見る目つきだった。

顔がキリっとなった。人は希望をもつことで前に進める。

それを目の前で、見させてくれた。

母にも朝早くに電話して弱気にならないと伝えたようだ。

私にも朝早く電話をくれた。

電話越しでイキイキしているようだった。

そして、父に家に帰るよ!と伝えて5日後

一時帰宅できることになる。

しかし、母は冷静に私にいった。

父を帰宅させるとか、あまり期待させないで。

母は、病院で寝たきりなのに自宅に帰ることは大変だからと

心配ばかりしていた。

母の気持ちもわかる。帰ろうと父に言って帰れなかったら

それは悲しい。

しかし、私が帰宅の話しを進めるうちに

黙って見守ってくれた、父を自宅に受け入れることを認めてくれた。

ちょうどその頃、父の一時帰宅する日にちの前日に

兄夫婦が帰省した。

一時帰宅を行う前に、看護師さんに父のケアの方法の指導を受けた。

父は酸素ボンベがないと生活できなくなっていた。

ホスピスでは、治療をしない病院で最低限の処置をしていた。

一時帰宅中もし、緊急事態で体調が急変した場合は

看護師さんが付いてこないので、家族で処置をしなければいけない。

なので、前日に酸素ボンベの扱い方と医療用麻薬の使い方を

私たち夫婦と兄夫婦で看護師さんに説明を聞いた。

私たちは、少し緊張気味だった。

酸素ボンベは2本あればいいと言う事だった。

医療用麻薬の扱いも私たちでもできるシンプルなものだった。

一時帰宅についての話しが終わり、みんなで父の部屋に戻った。

看護師さんかコーヒーはいかがでしょうか?と言われて私の旦那と兄がご馳走になった。

父が、ここのコーヒーは自動販売機のと違って

淹れたてだから頂きなさいと

みんなに聞こえるように話した。

男性組がコーヒーを頂いている間、私と兄嫁で

いつも飲む水を入れ替えたり父の身の回りを整えた。

そして、私たち夫婦は明日とこともあり先に自宅へ帰宅。

翌日、家族が待ちにまった父の一時帰宅の日を無事に迎える事ができた。

今日は午前中から病院を出発して父の自宅に着く予定にしていた。

この帰宅で、父に体験させたいことを3つ計画していた。

①自宅の中に上がらせくつろいでもらう②寿司のネタを口に入れてあげる③父が以前見ていた公園、海の景色を見せてあげる

当日の朝、父の部屋に着くとすでに父は外出する服装に着替えていた。

久しぶりに父の私服をみれて心がウキウキしたことを今も覚えている。

私の旦那さんの車を病院の出入り口で停車して父が車いすで来るのを待った。

行くときは、看護師さんが父を車へ移動してくれてその周りで

私たち子ども達は、熱いまなざしで車に座るまで見守っていた。

無事に座席に座り、いざ出発!

病院を出で、ゆっくり進むと

通行人の方が叫んでいることに気が付いた。

看護師さんがすごい勢いで車を追いかけているぞ!

みんなで後ろを見ると、父を座席に移動させてくれた方だった。

ちょうど、信号が赤で停車したら看護師さんが追い付いてまにあった。

忘れものです。一時帰宅の外出許可証!

私は窓越しにしっかり受け取りお礼を言った。

みんなで、びっくりしたね~何事かと思ったね~と笑いながら話して

ありがとうございました、と伝えた。

今日の酸素ボンベで外出できる時間は、10時から16時までを目安にしていた。

正直、16時よりかなり早い時間に病院に

かえしてあげたいと感覚的に私は思っていた。

初めての一時帰宅だったから。

前日に酸素ボンベの残量の見方など聞いて軽い講習を受けていた一同。

車の中では、横に座っている人が常に酸素量をチェックした。

父を車に乗せて嬉しい気持ちがあったが、たぶん私も含め家族みんな

父の体調をみながら緊張感が車の中に漂っていた。

旦那さんから後かろ聞いた話し。

お父さんの為に、車の進行中は揺れないように

神経を研ぎ澄まして運転をしてくれていたらしい。

酸素量は病院での生活では足りていると言っていたが、

車の中で酸素量のメモリを見ると減りがとても早かった。

父が少し苦しくなったと言ったので、酸素量を少し上げた。

そして、落ち着き標準にもどした。

あともうすぐで家に着く、ワクワクしてきて私の表情は自然と笑顔になった。

家には母が待っていた。

ここからが私たち子どもの勝負の時間が来た。

車から家の中に父を運ばないといけない。

私、旦那さん、兄、兄嫁で父を移動させる。

兄と旦那で父の身体を持ち、車いすに移動し

兄嫁が、酸素ボンベのコロコロを状況に合わせて移動。

私は、全体を観察して注意を払っていた。

無事に、車いすに移動してさらなる難関があった。

勝手口みたいな家に入る入り口には、段差があった。

足腰に力が入らなくなった父には、支えられていても怖かったかもしれない。

さらに、さらに部屋のソファに行くまで

父の歩幅だと20歩ぐらいは歩かないといけない。

通常では、半日病院にいて酸素ボンベは約2本で足りていたようだが、

病院でも車いすで歩くことをしなくなった状況で

20歩も歩くことは、一気に酸素量を使っただろう。

私たちも、今日がみんな初めてだった。

とにかく、父を守ることにみんな神経を研ぎ澄まして集中していた。

なんとか、ソファへ座ることができた。

以前、父が良く座る場所だった。

父が、私たちに嬉しい事を話してくれた。

ソファに座ってすぐ子ども達4人が居てくれて良かったと。

本当に嬉しかった。

一同、一安心したが休むことなく酸素ボンベ2本目に交換。

看護師さんが指導してくれた赤いラインまで残量が来ていた。

父は少し座り、首の後ろに枕を置いてくれといった。

その日の気温は、季節の変わり目で少し肌寒い日だった。

父は、家の中が寒いと言い暖房をつけて毛布をかけた。

自宅に着いたのが、11時半ごろでお昼ご飯をみんなで食べる事にした。

父が食べたいといったお寿司を買っていたので食べた。

お寿司は、兄が準備を前日から予約をして段取りをしてくれていた。

前日、父と兄夫婦がお寿司について語り合う動画をとっていた。

カツオがたべたいとかいろいろ話していた。

父はソファで横になってみんなが食べたりおしゃべりするのを聞いていた。

テーブルでは、父にはどのネタがいいか話して別のお皿に取り分けた。

今日は、父の帰省に合わせて父から頼まれた事務的な用事と

母からも用事を頼まれていた。

それも合わせて同時にしなければいけなかった。

なかなか、ハードなスケジュールにしてしまった。

その用事をするために、私、母、旦那で少し家を空ける事にした。

家には、父と兄夫婦が残った。

私たちが、家を空けているときに父はお寿司の魚を口に入れてモグモグした。

あとで、兄嫁が録画したのを見せてくれた。

飲み込むことは、できないからすぐに吐き出させていた。

その緊張感も動画から伝わった。

父が自宅で帰ってやりたいことができて嬉しかった。

その後、私はあちゃ~!失敗したなと思う事がおきた。

父から頼まれた事務的な用事と母の用事が

思った以上に時間がかかった。

案の定、自宅にいる兄から早く帰ってきてと連絡が来た。

私は、しまったと思った。

父との自宅で一緒に過ごす時間が短くなる。

父もどこに行ったんだ?と思っていたようだ。

私と母はそう言うところに気が付かない面がある。

そして、バタバタと帰る。

帰ってすぐ、父をまた車に乗せて

父と母がよく二人で出かけた公園に行った。

私がナビをして案内した。

そこを右に曲がって~

その直後、左から行った方が帰りやすいと母が言った。

しかし、もう曲がってしまい時間もないから進んだ。

そして、

山の頂上にある公園に到着。

いつも歩いていた場所までは行けなかったが

車の中から、見る事はできた。

そこで、ある一台の車が停車していた。

父が座席から、○○さんだと言った。

母が、えっ?本当に?と驚いていた。

みんな誰?とざわついた。

母があの人は、父の親しい友人よと教えてくれた。

クラクションを鳴らしてと母は運転手の旦那に言う。

旦那は、言われた通りプッ~!と鳴らした。

父の友人は、驚いた顔をして少しにらむような表情でこちらを見ていた。

そりゃ、そうだろ。顔が見えているのは運転手と助手席の私。

○○さんにしたら、変なやからに絡まれたと思っただろう。

すぐさま、母は降りて○○さんの元へ駆け寄って声をかけた。

私も母に付き添い横でたっていた。

母が○○さん!と近くで顔を合わせると相手も驚いていた。

久しぶりの再会だった。

父が車に居る事を伝えると、急いでそばに行ってくれた。

感動の再会だった。

まさか、また会えるとは思っていなかった。

あの時、私のナビで右に行ったのが良かったと言われた。

古い友人と再会して公園をでた。

父がなぜ友人と気が付いたかというと

車のナンバーを一瞬で読んでいたようだ。

みんなでさすが、お父さんと話した。

父は、名ドライバーだったから車の知識、運転

車の事はなんでも得意だった。

公園を出で、次は父が良く釣りをしていた海沿いをドライブした。

まさか、またこの景色をみれるとは。とボソッと聞こえた。

家の周りの景色を見た後、病院に帰ることにした。

母を自宅で降ろした。

その時、自宅の家の裏の親戚の方が駆け寄ってきた。

父が今日、一時帰宅をしたことを知っていたから会いに来てくれた。

なんとすごいタイミングが良く、感動した。

親戚のおじちゃん、おばちゃんは父の顔をみて

言葉にならない表情で、見つめ合う時間があった。

父の顔を見ると、涙をこらえていたように見えた。

唇が少し震えていた。

おじいちゃんとは多くの言葉を交わさなくても

見つめあい、深いお互いを思いあう表情があった。

私は涙が溢れた。

こんな表情を見たのは初めてだった。

母はサバサバした性格で、これが会えるの最後かもねってあっさり言った。

私は、また連れてくるから!!と泣きながら言った。

父の酸素ボンベの残量が減っていたので

ごめん、もう行かなきゃと伝えた。

ドアが閉まり、窓越しにこんじょうの別れをしているように見えた。

じゃあ、父を病院へ連れて行くね。

しばらく、走ると

父が酸素量をあげてと残りわずかな残量で調整した。

病院では、酸素ボンベ2本で半日持つが、

外出すると、酸素量をかなり使うねとみんなで話した。

今回は初めてで、予定を詰め込み過ぎた反省点や酸素ボンベの本数を

3本に次回はしようと話した。

旦那さんの丁寧な運転で無事に病院に着いた。

車から降りる時は、看護師さんが手伝ってくれた。

今日は、父を自宅へ連れて行き初めての事で

ハラハラすることもあったが家族の協力の元

無事に病院に帰ってこれて安心と喜びで幸せな気持ちになった。

父も楽しかったかな?疲れていないかな?とあとで気になった。

私たちは、無事に終えたことにホッとしていた。

父は部屋に帰り、兄たちもまだ病院にしばらくいるようだ。

私たちは、自分の家に帰った。

兄たちは、4泊5日滞在予定にしていた。

毎日、父の病院や母の自宅に行ってくれていた。

あとで、父との写真をとったのを見せてくれた。

院内を散歩する様子の写真もあった。

兄が父の足をマッサージしているものや膝を曲げて動かしてあげている

様子の動画も見せてくれた。

兄と兄嫁は、ほんとに優しい人だ。

私の方は、翌日は旦那さんがお休みだったので

いつも家族の為に、良くしてくれる旦那さんのために

好きなことをしてもらいたいと思い、旦那さんの趣味を満喫してもらった。

近所のお祭り、神社など行った。

私も久しぶりに、出かけてとても楽しかった。

この日は、私も疲れていたのか早く就寝した。

朝、早く目が覚めて携帯を見ると充電がきれていた。

私の携帯の充電が切れている間に、大変なことが起きていた。

メッセージに、兄嫁から見たら連絡をちょうだい!

私は、携帯の充電が少ししかない状態で急いで電話した。

なんと、母が体調を崩して救急搬送されたと。

朝、早く兄に電話があったらしい。

私は普段は携帯の充電がきれることがないのに

こんな時に限ってと思った。

母は、数時間検査をして身体に問題がないことが分かった。

しかし、本人の希望で2泊3日入院することになった。

その日は、気温が低く朝寒くなっていた。

そして、2日前に家族で一時帰宅をしたから

もしかしたら疲れていたのかもしれない。

兄が父に連絡して詳細を伝え心配していた。

私にも電話があった。

母の家の近くの親戚も心配して連絡をくれた。

しかし、医師によると母は大丈夫ですと言ってもらい

本当に安心した。

兄たちは、最終日の月曜の昼の便で東京へ帰る予定。

月曜日の朝早く、父の部屋によって帰ったようだ。

母の退院手続きやお迎えの送迎を任された。

火曜日の10時が退院だった。

その日は、まれにみる大雨だった。

警報も出でいた。

そんな中、母の病院へ旦那と車で向かった。

父も母の事をとても心配していた。

朝から電話があり、お母さんを病院へ連れてきてほしい。

そう言われた。

そしてまた、すぐに電話がかかり早くお母さんを連れてきて!

そのときは、まだしるよしもなかった。

父が数時間後に。

予定通りの時間に順調に迎えに行き、そのまま父の病院へ行った。

無事に父と母は会えて良かったと思った。

父と母は握手をしていた。

ずっと手を握り父が母へ語りかけそれを、頷いて母は静かに聞いていた。

その光景に感動していた私たち夫婦。

しかし、その次に母が父のおでこをさわり始めた。

でこが広くなった?とつぶやき始めて私たち夫婦は

いつものお茶目な母の言動に、クスっと笑ってしまった。

父は耳が遠くなり、たまに母の冗談が聞こえずみんなの笑顔を見て

なんか母が楽しいことでも言ったのか?と言う表情をしていた。

母が父の爪をみると、伸びていた。

父が何十年も愛用していた爪切りで母がきってあげるが

きれが悪いのか?父の爪が硬いのか

母の力では切れなかった。

そこで私に交代してきってあげた。

すごく爪が硬くかなり力を入れてようやくきれた。

しかし、爪の表面が少しガタガタしてやすりが必要だと

母が言った、じゃあ今度もってこよ~と話した。

父は、母にまたバスで来てと伝えていた。

母は笑顔でこたえた。

父は、前日に体調を崩していたようだ。

そんな中、遺言書を徹夜して書いたと話し始めました。

隣に看護師さんが居てくれて、この字はあっているか?

など確認しながら書いたそうだ。

まさか、そんなことをしてくれていたとは。

感謝が込み上げてきた。

その手紙をみたのは、父が亡くなった直後だった。

しっかりした字で丁寧で、少し震えた手で書いたのも分かった。

父と話したことは、母の今後の生活のことだった。

数日前、体調を崩して母の事を気にしていた。

これから、一人暮らしになる母。

介護保険を活用することを父と話した。

それで、早速今日の14時に地域の包括支援センターの方と母が

会うように約束をしていた。

それを父に話すと少し安心していた。

しかし、母はあまり乗り気ではなかった。

私も母が退院したばかりで無理はさせたくないので

包括支援センターの方と会う事をキャンセルも考えていた。

しかし、父が今日会っておけ!と助言し母は

乗り気ではなかったが父から言われて予定通り14時に会うことを承諾してくれた。

なので、もう帰らないといけないので

父の部屋を出たのは11時過ぎ。

父が俺の分まで美味しいもの食べてくれと言っていた。

父が意識がちゃんとある状態で会って、話せたのはこれが最後となる。

今思うと、部屋に入って父の顔を見たとき

今までと違って、すごく目がうるうるしてみえた。

なんと表現したら良い難しいが、

表情が美しかった。

そして、とても柔らかい表情で落ち着いていた。

いつもと違う様子だった。

会話中も苦しくなることも増えていた。

そして、私たち夫婦と母は実家へ行く。

母は毎日、宅配のお弁当を頼んでいたのでそれを頂き

私たち夫婦は、家の近所のラーメン屋で昼食を済ませた。

14時まで時間があったので、スーパーでアイスを買い駐車場で

時間まで待機していた。

14時前に、実家につき包括支援センターの方が来るのを待った。

そして、時間通りに来てすぐに母の話しを始めた。

母は自分で食事、風呂、洗濯、買い物などできる状態。

母はまだ介護保険は必要ないと伝えていた。

包括支援センターの方は、今日は母が今どんな支援が必要か

聞き出してくれた。

短時間で母の状況、気持ちを理解してさすがプロだと

私は横で今日来てもらい、母に職員さんと会話で来て良かったと思った。

しかし、母は話が長いのが苦手なので途中から私に

もう、話しはいい、終わって欲しいという表情をおくってきた。

今思えば、介護保険の仕組みの話しのくだりは私たち夫婦だけで

聞くところだったと夫婦で反省した。

そんなしていたら、父から電話が14時36分にかかってきた。

父が、そっちはどうだ?話しは進んでるか?と母のことを気にしていた。

わたしは、話しは進んでいる。お母さんを包括支援センターの方に

会わせて今日は良かった。一歩前進だねと伝えた。

父は、母の暮らしを見守る環境を整えて行く過程を望んでいるから

まずは、ホっとしたのではないだろうか。

そして、父が嬉しそうに話し始めた。

今、部屋にシスターが3人来て父の為に

讃美歌を歌いに来てくれたことを教えてくれた。

すごく電話越しで喜んでいたのが分かった。

私は本当にこの病院に来て良かったと

心から思った瞬間だった。

しかし、父が

あっ、もう苦しくなったから電話切ると言い会話が終わった。

会話の時間は、2分と履歴に残っていた。

父の生前、電話で最後に話した家族は、私となる。

包括支援センターの方との話しが終わったのは14時40分ごろ。

私たちも帰る支度をして家路に向かった。

母は介護保険の利用もする気がなかった。

包括支援センターの方の訪問も乗り気ではない。

母は、動けなくなったら施設にはいると考えていた。

しかし、問題は家で過ごせる期間の間のこと。

そのあたりを母の性格を考えて、私たち子ども達で

上手く母が納得できる形を提案しないと

いけないという課題がみえた。

旦那さんの助言で、私がもう少し仕組みや活用方法を

勉強して、提案できるようにならなければと思った。

そんなわけで、お母さんの介護保険の活用は

母のペースに合わせていくことにした。

帰りの車でんな話しをした。

兄夫婦には、今日の

父の事や母の事をこまめに連絡をとっていた。

父がシスターから歌ってくれた話や母の包括支援センターの方との内容を

早速、報告した。

帰りは、朝と大違いで雨も風もおさまり

運転しやすく天候に変わった。

朝も早かったせいか、帰りの車で助手席でウトウト寝てしまった。

その次に、目を覚ました時は渋滞の光景になっていた。

いつも実家へ行き帰りする道は、ここ数十年

渋滞することは一度もなかった。

田舎の山道、海沿いでスムーズに行ける道路。

渋滞する場所は、私たちの住む町に入ってからだった。

だから、えっ?こんなところで渋滞?なんで?と旦那と話した。

もう~!なんで渋滞なの?旦那さんに聞いたら30分は進まないと言っていた。

停車していたら、交通整備のような方が車の窓越しで

これから、通行止めから片側通行に変わりますと一台、一台に声をかけていた。

寝ぼけまなこで、私は携帯をチェックしたら圏外になっていた。

えっ?圏外?と思った。

しばらくして車は進み、流れがよくなり通常の速度で走れるようになった。

その後、道路に大木が倒れて全面通行止めになっていたことを知る。

その現場を通過する時、木は片付けられていたが、

大勢の電力会社の車、人で現場の大変さが分かった。

翌日のニュースにもなっていた。

やっと、通常運行になったときに父の病院から電話がかかってきた。

電話は父を担当する看護師さんだった。

先ほど、ドクターが私の携帯に電話をくれていたようだ。

きっと、電波が入らない所で圏外になっていたあの時だろう。

看護師さんから、父の容体が変わったという内容だった。

今回は母の家ではなく私の携帯に連絡が来た。

もう、意識がもうろうとして焦点が合わないと告げられた。

私は、少し焦る口調で

え?昼前にあってそんな急なんですか?

昼過ぎからの父の様子を簡潔に説明があったけど

今では内容を覚えていない。

もしかしたらもう、間に合わないかもと言われたとたん、

うそ、

うそでしょう、

お父さん

お父さん

分かりましたと告げ電話を切った。

きった直後、泣きじゃくった。

旦那さんはずっと背中をさすってくれた。

よし、行こうと言ってくれた。

車の方向転換して父の病院へ向かった。

そしてすぐに母に連絡をした。

病院から電話あった?母はないよという。

父の意識がない事を伝えたら、お母さんも今からタクシーで行くと言われた。

兄夫婦にもメッセージを送り状況を伝えた。

私は気がつかなかったけど旦那さんはすぐに状況を理解していた。

ここまでの流れをまとめる。

私たちが母の家を出たのは、15時過ぎ。

順調に行けば2時間で自分の家に着いていた。

しかし、帰る途中に天候の影響で大木が道をふさぎ

渋滞に30分以上、足止めにあっていた。

16時半ごろだった。

看護師さんと話したのは17時前。

渋滞で足止めされていた所から父の病院まで1時間。

父が息をひきとったのは、19時前。

渋滞にあわなかったら、きっと父が息がある時間には

間に合わなかった。

看護師さんから電話があり、車を走らせ18時頃に到着した。

これは、奇跡なのか。

神様、感謝致します。

到着して、ナースセンターの前を通っとき声をかけられた。

看護師さんも泣いていた。間に合って良かったですね。と

私は、泣きながら頷いて急いで部屋に向かった。

父の姿は見た事ない状態になっていて愕然とした。

目を閉じ、口が開いて息をしていた。

声をかけても反応しない。

しかし、看護師さんが声は聞こえています。

話しかけてください。と教えてくれた。

お父さん、聞こえる?間に合ったよ

そう、語りかけていると母が部屋に到着した。

母もすぐに父にかけより声をかけていた。

もう少し早くタクシーに乗ってたらとつぶやいた。

お母さん、私たちが到着した時にはもう意識がなかった。

だから、お母さん大丈夫と私なりに励ましたつもりだった。

看護師さんが話し出した、父は前日の夜に徹夜して

遺言書を書いたんですとその、遺言書を見せてくれた。

綺麗な字で家族へのメッセージを書いていた。

力を入れて書いたのか、震える文字のあった。

今日の昼前に、父とあったときに話していた遺言書だった。

まさか、6時間後にこんな形で手紙を見るとは思いもしなかった。

看護師さんからこんなに綺麗にかけるから

まだ大丈夫ですって言われていたのに。

父は自分の身体の異変に気が付いていたんだ。

徹夜して書いてる横で看護師さんにこの字は間違いないか?

など聞きながら書いたそうだ。

正確に書きたかったのだらろう。

父らしい、丁寧さだ。

兄夫婦にも電話をかけてスピーカーにして

父に話しかけてもらった。

兄は職場に居て、兄嫁は自宅だった。

兄とはすぐに通話が終わり、兄嫁にも

かけてくれと頼まれた。

兄嫁は、電話越しに泣いていた。

お父さん、お父さん、

泣いて言葉にならなかった。

お父さんありがとうございます。と

泣きながら一生懸命に喋っていた。

唯一、よかったことは父の表情だった。

呼吸が止まりそうになっているのに

苦しそうな表情をしていない事だ。

父に語り掛けた。

今日のお昼は、家の近くのラーメン屋さん行ったよ。

お父さんが俺の分まで美味しいもの食べてくれ!話していたから。

お父さん、ラーメン食べたよ。

そんなことを語りかけていると、開いていた口が閉じて

気のせいかもしれないが、口角が上がり

笑っているように見えた。

それをみんなに伝えると、みんなでお父さん!と言う

気持ちで笑って泣いた。

18時時半を過ぎた頃から、父の息のリズムが変わってきた。

その変化には、みんな気が付いていた。

しばらくして、看護師さんが様子を見に来た。

もう、呼吸をしていません。

そのあと、先生が来て死亡診断をした。

実感がまったくわかない。

すぐに事務的な流れを聞き、部屋の荷物の片付けして車に運び

近所の神父様に連絡したり、隣の親戚に連絡したり

悲しむ時間もなく、忙しかった。

母と悲しむ時間がないとはこのことなんだね、と話した。

母も疲れないように、やることが終わるとすぐに自宅へ送った。

父の部屋の荷物はとりあえず、実家の部屋に運んでおいた。

私たちは、スーパーでお惣菜を買って車の中で夜ご飯を食べた。

21時に看護師さんが父の着替えをしたり

葬儀屋さんに行く前の支度をしていた。

22時に葬儀屋さんが父を迎えに来た。

私たちは部屋に入り、葬儀屋さんが来るのを待っていた。

父の手には、母がどうしても持たせたかった

ブルーのロザリオを綺麗に指につけていた。

さあ、支度ができた

これで父がお世話になった、部屋ともさようならだ。

ここの病院に来て、1ヶ月と9日目だった。

タンカーのようなものに乗せられて

私たち夫婦と看護師さん、葬儀屋さんで地下の部屋へ移動した。

外の車の出入口とつながる部屋だ。

そこは、祈りの部屋と書かれていた。

キリスト教会の病院にふさわしい雰囲気で愛を感じれる部屋だった。

綺麗な絵が飾られていた。

とても優しい雰囲気が印象に残っている。

ここは病院から出発する最後の場所だった。

父が車へ乗せられるまで看護師さんが付いていてくれた。

父が遠くに行くようでお見送りで涙が溢れた。

見送ったあと、看護師さんがお父さん

一時帰宅できて良かったですね!と私たちに寄り添ってくれた。

お世話になりました!と最後に挨拶をして

私たちは、自宅へ戻った。

移動中、明日のお通夜のスケジュールを兄嫁に伝えた。

兄たちも明日、帰省してくれる予定だ。

こんな深夜にこの道を通るなんて初めてだった。

車もほぼいなく、スイスイと帰れた。

うとうとして目覚めると家の前についていた。

ずっと運転してくれた旦那様に感謝です。

家に着いたのは、日付けが変わっていた。

明日も忙しくなりそうだから、すぐに就寝した。

翌朝、出かける支度をみんなでした。

私は、洗濯

子ども達と旦那さんは朝ごはんの用意。

みんなで手分けした。

久しぶりに家を空けて1泊2日で家族でお泊り。

昨日の帰宅の車で兄たちとのメッセージのやり取りで

兄たちが、私たちの分のホテルの予約をしてくれていた。

兄は家族にとても優しい人だ。

今日は、お通夜の打ち合わせがあり、昼前には出発予定。

泊まりの用意もみんなして、いざ私の実家へ。

父のお通夜、葬儀は近所の教会の集会所で行われた。

実家からも近く歩いて数分の所にあった。

待ち合わせ時間より早く到着してしばらく、車内でゆっくりした。

私はまだ時間もあったので、近くを散歩することにした。

私が25年間住んでいた町。

だいぶ、景色も変わり隣の市へ嫁に出た時間の経過を感じた。

懐かしいな~

こんなにこの道は狭かったかな~!と思い出にひたっていた。

さあ~そろそろ

集会所へ戻ろうとしたら懐かしい近所の方に遭遇した。

久しぶりなのに私の事を覚えてくれていた。

話しを聞くと、今地域の民生委員をしているという事だった。

母は一人暮らしになることを話したら

気にかけてくれると言ってもらい安心した。

母にとっては余計なお世話かもしれないが私はできることをやり、

遠く離れたところにいる母を私なりに守りたい気持ちがあった。

話しも終わり、集会所へ行くとまた懐かしい近所の方にあった。

その方はこちらの集会所の管理をしていた。

久しぶりの再会に笑顔になった。

父と葬儀屋さんが到着して、父の棺を部屋に皆さんで運んだ。

打ち合わせも始まりコーヒーまで出してくれた。

葬儀屋さんからのアドバイスでお茶菓子やお茶を用意するため

旦那さんと子ども達で買い出しに行ってくれた。

兄たちも打ち合わせに間に合い話しを進めた。

今日、支払いの分を母に伝えに行った。

初めてこんなに通夜、葬儀の事務的な作業をすべて見て

なかなか、忙しく時間に追われていた。

そこへ友達から電話がかかってきた。

私の地元の友達だ。

父とも昔からよく

スーパーでばったり会いよく喋っていた。

父の病院へお見舞いにも行ってくれて

1時間もおしゃべりしたり、父に氷を食べさせてくれたり

父の事を大事に思ってくれていた、唯一の友達。

私が、ここの集会場を教えた地図が東京と住所がで出来て

場所が分からないと言われた。

私と友達は、少し笑いあった。

なんで東京なん?(笑)

場所を確認できて、今から来てくれることになった。

いつもきりっとした

たたずまいの友達。

父に会ってくれた。

ここ数日、父の事を大切な気持ちでそんなまなざしで

父を見てくれる人たちの優しさ。

友達もそんな、父をしのぶ表情で優しくみていた。

わざわざ来てくれてありがとう、と伝え

またねと別れた。

そして、通夜が始まり、親戚や近所の方が来てくれた。

私に駆け寄って来てくれた、母ぐらいの女性の方が声をかけてくれた。

私は、失礼だったが誰だか分からなかった。

しかし、すぐに母の妹さんだと分かった。

ここ数十年、お会いしていなかったので

すぐにわからなくて申し訳ないと思った。

お通夜は、久しぶりの再会で嬉しい気持ちがあった。

あと、一番は父の為に来てくれたことに感激した。

しかも、夕方から天候が荒れていて風が強い夜だった。

お年寄りが多い中、本当に感謝しかない。

無事にお通夜の式も終わり、ほっとした。

式が終わっても、久しぶりの再会にお互い喜びあえた。

改めて、父は親戚、近所の友人にみんなに愛されてることを知った。

お父さん、みんな来てくれて良かったね。

葬儀屋さんのアドバイスで21時までここに居た方がいいかもと言われた。

あとで、遅くにお通夜来る人もいるかもと。

それを聞いて、兄が俺がここに居るからと

私たち家族を先に帰そうとしてくれた。

子供たちもお腹すいてるはず、と優しい気配りをしてくれた。

ところで、ホテルの部屋代はいくらしたの?と兄に聞くと

兄が支払いをすると言われた。

私たち夫婦は、えっ!いいって!東京から来るだけでも

お金かかるし、しばらくこっちのホテルに兄たちは泊まるのに!

私たち家族のホテル代までお金がかかるって!

そう言うと、大丈夫だからと。

今回は、優しさに甘える事にした。

本当にありがとうございます

これは私が個人的に思うことだが、兄夫婦は

私たちにお礼をしてくれた気がする。

私たちは目の前の事をがむしゃらにしただけだった。

それなのに、こんなに大切にしてくれて感謝が込み上げてきた。

兄の優しさに甘えて集会所を

先に退散することにした。

兄が予約してくれたホテルの方面で、

ファミリーレストランを見つけて晩ごはんにした。

食事をしながら明日の事を話した。

お父さんの棺の中に、お寿司とラーメンを入れたいと提案した。

食事を終えて、スーパーへ向かいお惣菜コーナーで

立派なお寿司を手にとった。

あとは、カップラーメンのミニとビール、父が好きなチョコレートを購入した。

それをもって、兄が予約してくれたホテルへ向かった。

一度、ホテルを下調べしたけどすごい豪華な設備があるホテルだった。

ホテルに行くまでワクワクした。

到着してホテルに入ると、新しく綺麗でおしゃれだった。

1階は、おしゃれなカフェがあった。

部屋に行くと、

シンプルなデザインで落ち着くインテリアで

今晩は、心穏やかに過ごせそうと思った。

とても、気分転換になった。

兄たちに部屋の写真や動画を送った。

いい部屋だねと伝えたら兄が良かったと返信が来た。

兄たちは、節約して賢く帰省をしていたように私からみて思っていた。

市内の移動もバスを調べて、お金の使い方が丁寧で尊敬していた。

自分たちのホテルはビジネスホテルといっていた。

私たちにはとびきりの豪華なホテルを用意してくれて

いきなことをしてもらった。

このお礼に落ち着いたら何か贈り物を送ろう。

旦那さんがコンビニへ水を買いに行きもどり

近くの公園でイルミネーションをしていたと話していた。

部屋の冷蔵庫に父にあげるお寿司をいれた。

部屋に着いて、荷物の整理などして風呂にはいり

みんな早めに就寝した。

翌朝、6時頃起床した。

兄を迎えに行く予定にしていたので7時半にこのホテルを出発。

みんな支度を終えて出発して迎えに行った。

そのまま、父のいる集会所へ行き

葬儀屋さんとお葬式の打ち合わせをした。

葬儀は、10時からだった。

葬儀の司会者から

式の中でお父様のこれまでの生涯を

紹介するくだりがありますが必要ですか?

私は、是非ともお願いしますと伝えた。

司会者の方が、父の事について質問をしてくれる度びに

目頭があつくなった。

父のこれまでの人生を式の中で短くまとめ

ナレーションをしてくれた。

カトリック教会の葬儀では、神父様が途中で

お話をする場面があった。

私たち親族へ向けて励ましの言葉のありさらに私は涙した。

親族からもお祈りを読み上げる担当があった。

私と兄で朗読した。

私は涙をこらえてなんとか読み上げた。

兄はすごくて喪主の挨拶や父のこれまでの健康状態など

参列してくれた方へ向けてアドリブでしっかり話してくれた。

本当に立派だった。

あとで、兄嫁に聞いた話しでは東京から会場に到着して

棺にはいる父を見て号泣していたそうだ。

神父様の言葉でこんな力強い言葉があった。

「神を信じなさい」

父は心穏やかに安息できることを。

私も信じるとその時思った。

最後に父へ一人一人が献花をしてくれた。

来てくれた方々の顔を見ながら私たちもお辞儀をした。

父の棺の中には、お寿司のセットと大好きなラーメン、チョコレート、コーヒー

そして、父の病室で飲んでいたハーブティーを入れていた。

喜んでくれたらいいな。

小さな集会所の教会での葬儀が終わり

父の棺を車に移動することになった。

男の人たちで運んだ。

外はどんよりとした空、風もけっこう吹いていた。

出発の準備が整った。

私と兄が車に乗った。

出発の車のクラクションがブーッと響き渡った。

実はその時、私と兄は車に乗り知らなかったが

ブーッと鳴らしたすぐに、どんよりとした空で嵐のような天候が

一瞬でこの場所だけ太陽の光が差したそうだ。

その場に居合わせた、人たちもここだけ天気になり

空を見上げて驚いたと聞いた。

父が見守っていた。と私もみんなも思ったはずだ。

集会場を出て、運転手の方が家の前まで行ってくてた。

体感で3分もいなかったと思うが、

火葬場に行く前に、まさか家の前で停車できるなんて

思いもしなかった。

私は「お父さん、家の前だよと」棺の横で話しかけた。

そして、出発した。

母や旦那さんたちは、自家用車で会場へ向かった。

到着すると、神父様が来ていた。

普通は斎場まで来ないと思うので、驚いた。

父に祈りを捧げてくれた。

親族たちも来てくれた。

そうこうするうちに順番が来た。

これで本当に父との最後の時だ。

一瞬でお別れ、涙がでた。

その後、順番を待つ為に親族で控室に入り待機した。

その時、親戚のおじさんから父の若い頃の話を聞いた。

私の知らない事をいろいろ聞いた。

父の仕事の内容、親族の為に尽力を尽くしたこと。

おじさんからこんなことを言われた。

「お父さんはすごい人なんだ、誇りを持ちなさい」

とても、嬉しくて自慢の父だと思った。

しばらく、みんなで雑談をした。

そうこうするうちに順番が来た。

みんなで骨をひろった。

皆様、本当にありがとうございました。

親族とここで解散した。

それが終わると母たちと自宅へ帰った。

帰ったとたんに天気が悪くひょうが降って驚いた。

みんないつもの私服に着替えたり、少しゆっくりして過ごした。

兄たちは、父の事務的な手続きに動いてくれていた。

私の家族は今日は、帰ることにした。

帰りのくるまで、私は泣いた。

ここ数日、悲しい感情が追い付かない状況で

やらないといけない事をただ、こなして時間が経っていた。

忙しいかったり、やらなければいけない事があることは

ありがたいのかもしれない。

悲しみを味わう暇がないのが助かった。

しかし、ゆっくり考える時間ができると思い出して泣いていた。

私は、葬儀が終わった翌日から空を見つめる時間が増えた。

空に向かって、神様どうか父をよろしくお願いしますと祈り手を合わせた。

心穏やかに安息できますように父を導いてください。

10日間ぐらいめそめそ私は泣いた。

11日目ぐらいから感情が落ち着いてきた。

写真はみれても父の映る動画は1ヶ月たってもまだ見れない。

こんなにも、切ないものなんて知らなかった。

父は沢山の方に愛されていた、みんな泣いていた。

こんなに、惜しまれていくとは実は素晴らしい事なのではないだろうか。

この世界に誕生する時、泣きながら生まれて

そして、この世を去る時は周りの人が泣く。

そんな生き方を目のまえで教えてもらった。

今日と言う日は、昨日

生きたかった人たちが

生きたかった日。

だから、生きている人は

毎日を楽しく生きよう。

会いたい人に会い、

行きたいところに行こう。

人生は一度限り、

この時代に

この肉体に魂が宿り

大事な人と過ごせることは

当たり前ではない。

私は当たり前に思っていたのかもしれない。

人はいつか旅立つ時が来る。

もう二度と声も聞けない、会話もできない。

信じられない事だ。

だから、目の前の人を大切にしたい。

父の事で、この日本の医療についてや

医療現場で日々働く方、

終末期の過ごし方について

深く考える事ができた。

私は、いつかお年寄りになりこの世から去る時

父にまた会いたい。

そして、頑張って生きたよと伝えたい。

あなたがどんな時も前を向き

いつも自分のことより

家族を大切にしてくれた言動、

一生懸命に生きた日々を忘れたくない。

ここに記録しときます。

お父さん

また、会う日まで。

娘より

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